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「自分のことを考えろ」

私は「自己分析(新語)」を自分でするというのは矛盾であり無理だと言ってきました。しかし、自分の過去の出来事を振り返り、その時の感想などをまとめるのは、面接対策として意味がないとはいえないでしょう。ただ、職種などの「適性」結果にしばられると逆に非常に限られた世界で就活をしてしまうことになるので、そこは注意したほうがいいです。
今日は、ちょっとズボラして、「自分のことを考える」とは何かを「考えて」ほしいと思い、橋本 治氏の本から引用、紹介したいと思います。ちょっと長いけど途中でやめると、意味がわからなくなりますので、そのおつもりで。
  

「自分のことを考えろ」と言われると、まず"他人のこと"を考える人からすると、「自分のことを考えろ」と言われると、まず"自分のこと"を考える人は、おかしい。なぜかというと、それは自分のことしか考えないエゴイスト思考だからである。
 意外かもしれないが、「自分のことを考えろ」と言われると、まず"他人のこと"を考える人にとって、「自分のことを考えろ」の声は「ゆるし」でもありうるのである。どうしてかと言うと、放っておけば「他人のこと」しか考えない人に向かって、その声は「自分のことを考えてもいい」と言ってるからである。
 「放っておけば他人のことしか考えない人」は、「他人との関わりの中」で生きている。「自分は、自分を取り巻く外的条件の中で生きている」と自覚した時、人は生きていくために、自分を取り巻く「外的条件」を考えずにいられなくなる。「他人のことを考える」は、当たり前である。まずその前提条件を押さえて、次にそれに対処する「自分のこと」を考える。それは「外的条件抜きでは自分のことを考えられない」でもあるのだが、人は「自分を取り巻く外的条件の中で生きていく」なのであるから、べつに不思議なことではない。
 その「不思議でもない」を受け入れてしまえば、その後に起こるは、「どうやってその外的条件をクリアして、"自分"なるものを成り立たせるか」という試しみである。この「試しみ」をクリアしてしまうと「自足」が生まれる。「自分はさまざまな外的条件に取り囲まれているが、なんとかそれをクリアして"生きていける"」である。
 生きていく上での苦労はつきものである。しかし「生きていける」になってしまえば、それはもう「自足」である。自足しているんだから、「自分のことを考えろ」と言われたって、たいして考えることはない。だから、そういう人たちが「自分のことを考えろ」と言われたら、「かなり独特」と思われてしまうような解釈をする。
 この人たちは、もう十分「自分の生きるための方法」を考えているのである。それはつまり、「苦労をしている」である。苦労をしていても、それはそれで当然と思っている---なぜならば、人は自分を取り巻く外的条件の中で生きているからである。
 彼らにとって「自分のことを考える」は、生きるための必要悪に近い。
<中略>
 外的条件との調和を考えて努力するのだったら、そこには「欲望の制御」がつきものになる。だから、それをやって来た人にとって「自分のことを考えろ」は、「自分の欲望充足を考えろ」である。しかし、自分の欲望を制御して外的条件との調和を考えてきた人にとって、既に欲望の充足は、「外的条件との調和の達成」で完了されている。いまさら「考えろ」はないのである。それは、「死んでしまった子供の将来を考えろ」と同じように、意味不明なのである。
 遠い昔に子供は死んでしまった。その時は泣いた。その涙の痕跡は今もまだ残っている。しかし、死んだ子供は死んだ子供で、生き返るわけがない。そこに「あの子が生きていたら、今頃はこんな年で・・・」と言われてもどうしようもない。思うのは、「死んだあの子のことを覚えていてくれてありがとう。子供を失った私の嘆きを覚えていてくれてありがとう」だけである。
 外的条件との調和を考えて生きていかざるをえない人間にとって、そのために失われてしまった「自分=自分の欲望充足」は、「遠い昔に死んでしまった子供」のようなものである。失いたくはないが失ってしまった---その矛盾を前提にして、人は生きていかざるをえない。その悲しみを克服して生きてしまえて、ある自足状態に至ってしまったら、それ以上の欲望充足はない。その人にとっての「自分のことを考えろ」は、「あなたの苦労はわかる、ご苦労さん」でしかないのである。
 それを言われたらどうなるのか?「はい、ありがとうございます。でも私はなんとか生きていけますから、私は、まだ苦労で悩んでいる人のことを、少し考えてあげたいと思います」になる。---それが、「自分のことを考えろ」と言われるとまず「他人のこと」を考える」である。
 自分は外的条件の中で生きている。「他人」は、その外的条件を作る大きな要素である。その他人がよくなってくれたら、自分が格闘せざるをえない外的条件だって緩和される。だから、自分の状況をよくするために「他人のこと」を考える。つまりは、「情けは人のためならず」である。「他人のことを考える」は、結局のところ「自分のため」につながって戻ってくるのである。---そのように、考えるのである。「自分のことを考えろ」と言われると、まず「"他人のこと"を考える」は、このように生きてもいるのである。
 この人たちにとって、「自分のことを考えろ」と言ってもらえるのは、それだけで「はい、ありがとうございます。もう十分に自分のことは考えました。自分の欲望は充足されました」なのである。そういう構造になっていて、そういう思考パターンをマスターしないと、「自分を取り巻く外的条件の中で生きていく」は不可能になるのである。
(※いま、私たちが考えるべきこと 橋本 治:新潮社より抜粋)


 
まだ、重要な話がつづくのですが、長いので諦めます。読みたい方は本を買ってね。
この橋本治氏の話は、社会人向けの内容なので、ピンとこないかもしれませんが、自己分析を考える上で、これから仕事をいろんな他人との関わりの中で生きていこうとする上で、重要なヒントになると思います。
就活中の学生なら、自己分析して明文化できた「これまでの自分」と、その分析結果から得られた「これからの自分」は、いずれも一人で生きてきた、生きていくわけではありませんよね。これまでは両親や兄弟は別にして、友人や恋人などは自分に選択権がありました。しかし、仕事をする上では非常に嫌な上司や、苦手な同僚、無理難題を押し付ける得意先などとのおつきあいを「私は選択しない」という選択肢を与えられないことになります。まさに「自分を取り巻く外的条件の中で如何にして生きていくか」が「自分の人生」そのものになる、ということです。
ややこしい話を紹介しましたが、「自分を考える」を「考える」ためのヒントにしていただければと思います。