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就活と採活と生活

採用広報・広告を創る立場から就活のあれこれを書いてます。

自己分析って何だろう

自己分析についてはいろんな先生方や就職ナビにも掲載されていますので、ここでは私の簡単な意見と興味深いお話の引用をご紹介させていただこうと思います。
いろんなサイトを見ていると自己分析の必要性を説いているものが多いのですが、その本質的なところまで踏み込んだサイトは少ないですね。ではなぜ、自己分析をするのかというと、自分はどんな人間で、どんな職種に向いているかなどを「出力」してもらい、それによって自分を分析(発見?)することといえるでしょう。別な言い方をすれば、仕事で「自己実現」できる会社に入社できるようにするために事前に自分自身をよく調べること。いわゆる「こんな会社(仕事)は私の望むものではなかった」という失敗しないためですね。
では、自己分析をして、「自分はこういう性格だからこういう職種に向いている」という結果が出たとします。でも、自己分析をしたその10分後には、自分というものは変わっています。いま、そうだと思ったことが、よく考えてみるとやっぱりこう思うなとか、人の意見を聴いて「あ、そうだ、私も本当はそう思っていたんだ」と、コロコロ変わるものだということです。「自分は一生自分で変わらない、私は意志の強い人間だ」という人でも一瞬たりとも「同じ」ではないのです。どんどん変わっているのです。というか、変われるのですね。
だから自己分析をしたその数日後、もう一度やってみると、きっと同じ結果にはならないと思います。自分が変わっているからです。今はいろんな自己分析サイトがあるのでそのやり方によっても変わる。また設問の答えに困ることがあると思う。どちらでもない、条件付きでこう思う、という回答方式があれば別だが、そんなことをするとコンピュータで「答え」を出せなくなる。自己分析というのは、意味がないとまでは言いませんが、「占い」みたいなものだと思っていいのではないでしょうか。

私がよく拝見させていただいているブログで、上記に関するお話がありましたので引用させていただきます。

「あるときわたしが社長をしていた会社の女子社員のひとりが、会社を辞めたいというので、ではそのわけを聞かせてくれないかということになりました。
彼女が言うには、『この会社では自己実現できない』というものでした。『えっ? 自己実現て何なの』というのがわたしの最初の反応でした。
 当時社員数は20人ぐらいだったでしょうか。わたしの会社はおそろしく定着率の良い会社で、いわゆる寿退社以外にはほとんど会社を辞めようなんていう人はいませんでしたので、この女子社員の小さな『反乱』はちょっとした風を社内に持ち込みました。
 自己実現とは、自己の能力や可能性の全てを開花させるというような意味なのでしょうが、それがどのようにすれば『実現』できるのかについては、誰も答えをもっていないような欲求であるといわねばなりません。
 なぜなら、能力も可能性も、それが実現してみて初めて了解できるものであり、事前にそれぞれの人に登録されているリソースではないからです。
 『この会社では自己実現できない』と言った社員は、『別の会社でも自己実現できない』はずです。自己実現は、その定義からして環境によって実現しうるも のではなく、自己実現といったものを実感したときには、すでに環境も変化しているというように、すべては事後的にしか実感できないものであるからです。
 いや、事後的にも実感できないといった方がいいのかもしれません。自己実現とは将来実現する能力や可能性なのではなく、ただ、現在の欠落感としてしか実感できないものであるといえるのではないでしょうか。」
自己実現」とか「自分探し」ということばが、現代において支配的なイデオロギーの産物であり、これはあまりよい結果をもたらしていないということは、私もこれまであちこちで書いてきたけれど、期せずして私の敬愛するふたりの書き手も同じことを述べている。
「自己」というのは橋本先生が言うとおり「土壌」のようなものである。
あるいは「繁殖能力」(fécondité)といってもいい。
そこ「から」かたちあるものが出てくるのであって、それ自体は「エネルギー」や「トラウマ」と同じく、ある種の「仮説」であって、「はい、これ」と言って取り出せるようなものではない。
「そこから出てきたもの」を見てはじめて事後的に「こういうことができる素地」というかたちで「自己」は認証される。
でも「素地」というくらいだから、どんなものだかよくわからない。
定量的に語ることはたぶん誰にもできない。そこから生えてきた樹木のクオリティを見て、土壌としての生産性や通気性や保水力を推し測ることができるだけである。
「この会社では自己実現できない」という言明を発した人の場合、「そういう会社をみずから選択して、そこで『無駄な日々』を便々と過ごしてきた自 分」というのが、とりあえずはそのひとの「樹木」である。そして、そのようなものしか育てることができなかった「土壌」がそのひとの「自己」である。
人間はその意味では、そのつど「すでに自己実現してしまっている」のである。
もし、そこで実現したものがあまりぱっとしないと思えるなら、樹木が生え来た当の足下にある「土壌」の肥沃化のためのプログラムをこそ考慮すべきだろう。
「土壌の肥沃化」なんていうと、すぐにあわてものは「化学肥料」や「除草剤」の大量投与のようなショートカットを思いつくだろうけれど、そういうのがいちばん土壌を痛めつけるのである。
土壌を豊かにするための方法はひとつしかない。
それは「繰り返し」である。
若い人にはわかりにくいだろうけれど、ルーティンをきちきちとこなしてゆくことでしか「土壌を練る」ことはできない。
土壌肥沃化に特効薬や即効性の手段はない。
土壌そのものが繁殖力を拡大再生産するようにするためには、一見すると「退屈な日常」としか見えないようなルーティンの繰り返ししかないのである。
その忍耐づよい労働をつうじて土壌の成分のひとつひとつがやがてゆっくり粒立ち、輝いてくる。
「練る」というのは、そういうことである。
「技術」というのは、千日万日の「錬磨」を通じてしか身に付かない。
ハウツー本を読んでたちまち身に付くような「技術」は三日で剥がれるし、バリ島やニューヨークに行ったり、転職するだけで出会えるような「ほんとうの私」からはたぶん何も生えてこない。


自己というのは、「土壌」である。興味深い話だと思いませんか。
皆さんの中には「じゃあ、私はどうすればいいんですか?」と思われた方も多いと思います。学生時代は試験の答えがありました。しかし、社会に出ると答えはひとつではないし、答えがあるとは限らない世界です。何をするにしてもやる前から結果がわかっているのなら面白くない。やってみて、どうなるかがわからない、だから面白いのだと思いますよ。
社会に出ると自分の知識や経験を総動員して、その時々の自分を信じて判断していくしかない。その時に知識や経験がものをいうわけですよね。そして結果を受け入れて実体験として頭と身体に入力され、次の出力に備える。この繰り返しだけです。就活というのはその第一弾。ここから始まっているのです。